空海、渤海国とのかかわり

舞黒一太郎の優雅な電脳日記

   
目次 http://d.hatena.ne.jp/microititaro/20040911



 舞黒一太郎です。


 渤海国とは今から1300年前の689年、今の中国東北部とロシアと北朝鮮
にまたがる、日本が満州と呼んだ地域に成立した古代王朝国家です。渤海国の統
治階級の大多数は、高句麗人でした。渤海国は、自国が高句麗の継承国であるこ
とを宣言し、あるときは、高麗国を自称しました。この国は以後200年余の間、
日本と同じように唐から政治、文化、仏教を取り入れ、平和な文化国家として栄
え続けました。貴族子弟を長安に派遣して学習させ、漢文を使用し、唐朝の制度
により国家を管理し、農業、手工業を発達させたのです。705年、唐中宗は、
御史張行岌を派遣して招請し、渤海国は、即座に帰順しました。713年、唐玄
宗は、遣郎将、鴻臚卿崔忻を再び渤海国に派遣し、渤海国王を都督、左驍衛大将
軍、渤海郡王にしたのです。


  それはちょうど日本の奈良時代から平安時代前期に当たる時代で、渤海国
日本海をへだてた隣国である日本にも友好を求めて727年から819年までの
約200年間に公式の使節だけでも34回も派遣してきました。この派遣は、平
均すると5,6年に1回の割合となります。 これに対して、日本も、親善使節
渤海使を送って行く送使として15回も使節を派遣して親善を深めました。こ
の交流の歴史はあまり知られていませんが、日本古代において長く、濃密に展開
された国際交流だったのです。


 渤海国の使者は越の国である北陸地方から訪れることが多く、六国史に記され
たいくつかの記録から、石川県輪島市の近くの福浦港に、渤海使の船を修理した
り、遣渤海使が海へ行くための船を建造する造船所が存在したと考えられていま
す。また、それに従事する渤海の船大工や、使節団が都へ往復する間待機してい
た船員達のための宿舎(能登客院)が建てられていたともいわれています。 富
来町には、福浦港の近くに造船所の跡、能登客院の跡、あるいは富来町に滞在中
に亡くなった渤海使の副使慕昌禄の墓があったのではないかという言い伝えがあ
ります。


 空海遣唐使の一員として派遣される平安時代の初め、804年になって、朝
廷は「最近渤海使能登国に来着することが多いので、早く(渤海使を宿泊させ
るための)客院(能登客院)を造りなさい」という勅令を出します。そして、こ
の客院は船の修理や建造を行っていた福良の津に設けられていたのではないかと、
考えられています。


 空海は白山で修行し、佐伯氏出自である古代東北国家の英雄、アルテイと交遊
し、さらに渤海との交易をしているこの地へもしばしば訪れています。また渤海
国はアルテイ率いる古代東北国家とも親密な交流がありました。


 そんな時、渤海人の道教道士、李光玄に出会います。彼により唐のさまざまの
事情、知識を教えられました。李光玄は若い頃、渤海商人として中国の「青社淮
浙の間」つまり中国の東海岸に面する莱州・登州・海州・楚州・揚州・明州・越
州などの海港都市を貿易しておりました。そのうちもっと利益のあがる日中貿易
へと切り替え、日本、唐、渤海、朝鮮をまたにかけた大商人となった人物です。。


 日本からの帰り道に、李光玄はたまたま便乗していた百歳ばかりの中国道人(
道士のこと)と出会い、朝夕となく「新羅渤海・日本諸国を巡礼し」た道人の
遊歴を聞かされ、道教修行の啓蒙を受けることになったのでした。彼はその後、
渤海国へ帰郷し道教を極め、さらに日本の雲島に移り住んでいたのです。


 学べば学ぶほど湧いてくるさまざまの疑問を解決するため、また李光玄からの
唐の最新情報を学ぶにつれ、空海はついに渤海経由で訪唐する決意を固めます。


 李光玄が教えてくれた渤海国経由による唐への道は、東シナ海ルートより安全
であるうえ、李光玄の持つ日本、渤海国、唐にまたがる貿易ルートによる、唐へ
の送金システムは、彼が遣唐使で渡った際、なぜあのような資金を用意すること
ができたかという疑問への答えでもあります。