究極の勝利法、気で勝つ

舞黒一太郎の優雅な電脳日記

   
目次 http://d.hatena.ne.jp/microititaro/20040911



 


 舞黒一太郎です。


アテネオリンピックは日本人の大活躍が目立ちましたが、肉体的に劣る日本人
が、よい成績をを上げるには(気)で勝つ方法をマスターする必要があります。
しかし形の無いものだけ捕らえにくいのですが、あえてその(気)について触れ
て考えてみたいと思います。


 富田常雄の大ベストセラー。姿三四郎のモデルが西郷四郎であることはよく知
られています。西郷四郎(1866〜1922)は、白虎隊で有名な会津藩士志田貞二郎
の三男であり、旧藩家老西郷頼母の養子となります。この時点で、会津御式内
伝承者、保科正之と同族の日光東照宮禰宜(ねぎ)保科近悳(ほしなちかのり
)の後継者とされますが、なぜか彼は近悳のもとを去り加納治五郎の講道館へ去
ります。しかしこの保科近悳の会津御式内という柔術は、気を自由に扱うことに
関しては恐るべきものでした。去ったとはいえ多大な影響を受けた西郷四郎は、
1882年(明治15)、17歳のとき上京、8月、永昌寺の講道館入門、翌年8月、講
道館最初の初段、86年1月、5段に特進、同年6月の警視庁武術大会で山嵐によ
り有名となります。しかしこの「山嵐」なる技は、他人がまねをしようとしても、
どうしても西郷のようには出来ない不思議な技でした。


 姿三四郎こと西郷四郎は90年、嘉納治五郎の渡欧中、かねて「支那渡航意見書」
を残し、不敗のまま講道館を去り、長崎へ。このとき25歳。それ以後、長崎を中
心に、日清・日魯両戦争を挟み、大陸問題運動家・新聞人として活躍しますが、
二度と武術家として世にでることはありませんでした。


 私が注目しているのは、その師にあたる会津御式内の保科近悳です。その最強
にて不思議な技は最初、同郷の大東流合気柔術の本家筋にあたる武田惣角に伝え
られるはずでしたが、彼が剣術にのめり込み故郷を去ったため、後継は一時西郷
四郎ということになりました。しかし彼も講道館へと去り、近悳は失意の中にあ
りましたが、武者修行を終えた帰ってきた武田惣角が再び現れ、あらためてその
術のすべてを教えました。弟子、武田惣角は天与の才能と工夫、努力の結果、師
を凌ぐレベルに達し、その一部が弟子の創設した合気道として、現在でも残って
います。


 この武田惣角の技、それはとても常人には信じられないものでした。五尺(1
m50㎝)たらずの小男が、2m近い力自慢の柔道家、相撲取り、格闘家、あいぐ
ちを振り回すやくざ達などを、力を入れることなく、あるいは触れることなく、
風にさかわらぬ柳のごとく、バッタバッタと、しかも完膚なまでにたたきのめす
のです。
 彼の体重は50Kgたらずでしたが、7人の力自慢に向い、自分を持ち上げさせ、
「重くするぞ」というと、合気によってこの7人一気に潰しました。7人は惣角
の重量を支えきれず、腰が砕け転倒したのです。惣角は気合いをかけることによ
り、枝に止まっているカラスを失神させたり、茶碗を割ることが出来き、その洞
察力は敵が向けたピストルの方向までわかったといいます。


 この技の一部を、柔道やレスリング、テコンドー、ボクシング、相撲といった
格闘技、またその他の競技にに応用したらどうなるかを考えてみてください。体
力の不利などまったく関係なく勝利が可能です。惣角のレベルに比べるのは酷で
すが、気で相手を飛ばすということの出来る人は、西野皓三氏をはじめ、合気道
関係者などに結構実存しています。現在のスポーツ科学では未だ説明できないた
めトレーニングに取り入れている人はごく少ないのですが、どうしても勝ちたい
競技者にとっては大いなる希望となることでしょう。