独り言、泣くことは老いの始まりじゃない

舞黒一太郎の優雅な電脳日記

   
目次 http://d.hatena.ne.jp/microititaro/20040911



 


 舞黒一太郎です。



 年取った証拠に、独り言が多くなることがあげられます。人がびっくりするほ
ど大きな声でする人もあれば、ぶつぶつと人にわからない程度の人もあります。
いずれにせよ他人に語っているのではなく、自分自身へか、無意識にか口が開い
ているわけです。私はこれをボケの始まりとみる考えには同意できません。


 金子みすゞさんの詩に(こだまでしょうか)という詩があります・

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(こだまでしょうか)


「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう

「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう

「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう

そうして さみしくなって

「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう

こだまでしょうか いいえ、誰でも。

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この詩を読むとき、やはりみすゞさんの(さびしいとき)に出てくる「私がさび
しいとき 仏様もさびしいの」と言うフレーズを想い出します。自つまり分の中
に無意識下に、あるもうひとりの自分(仏性)の存在のことです。


 (こだま)は同じ言葉しか返ってきませんし、独り言に返事をする人はありま
せん。しかしまちがいなく痛みや悲しみは半分になっています。


 本人の思うがまま、本人が感じるままを認めてくれるのは至上の愛の持ち主だ
けです。至上の愛の持ち主は仏様、そしてかっては親でありました。しかし今の
親は必ずしもそうではなくなりました。


 自分で自分を守ったり、さびしさをやわらげるため無意識におこなっているの
が独り言であり、みすゞさんの(こだま)は自分の中にいる仏様の言葉なのです。
年を取ると孤独となりがちで、淋しさや、老いの悲しみ、死への恐怖などから、
無意識に自分で自分を慰めているのを、年取った証拠と決めつけているのは、認
識不足と言わざるをえません。独り言で気持ちが軽くなってゆくのなら、それは
よいことであり、年寄りの印などと揶揄するのはやめようではありませんか。


 「泣く」ということも独り言と同じ作用があります。泣くことにより悲しみは
半減してゆきます。かって「泣かせて」という唄がありましたが、泣きたい人に
は思い切り泣かせてあげればよいのです。



楽しい想い出ばかりだなんて 言わないで
こんな時に なんの慰めにも ならない
泣かせて 泣かせて
男には 出来ないことだもの
泣かせて 泣かせて
自分が 悔しいだけよ