空海、遣唐にまつわる謎解き

舞黒一太郎の優雅な電脳日記

   
目次 http://d.hatena.ne.jp/microititaro/20040911



 舞黒一太郎です。


●なぜ無名僧、空海遣唐使メンバーに選ばれたのか?


 三十一才の時、無名の空海は西暦804年に第16次遣唐使として中国に渡り
ます。なぜ一介の無名の僧が留学生に選ばれたか、これは,非常に幸運なことが
重なった結果がもたらした出来事でした。このときの遣唐使は藤原葛野麻(かど
のまろ)を代表とし、舟中には、伝教大使の最澄橘逸勢もいます。しかも幸運
なことに、もしこの船に乗り遅れていれば,次の遣唐使が成功するのは35年後
になったのでした。


 当時の唐への留学生は,1回につき10数名で、1隻に100人以上4隻の船
団ですが,風がない時に櫓をこぐ人がほとんどでした。前期の遣唐使朝鮮半島
の西側を北上するコースをたどっていましたが,後期は東シナ海をつききるコー
スをたどるようになりました。このコースはうまくいけば10日足らずで横断で
きるのです。しかしこのコースは,非常に危険なコースで,第8次遣唐使以後で,
一度も事故に遭わずに渡航できるのは,1回だけというものでした。季節風の知
識や,航海の技術がないこと。底高の船で,高波に弱いことなどで難破や漂流の
危険性が高く命がけでした。そのため,時代とともに志願者が減っていたことも
空海に幸いしました。


 じつは第16次遣唐使は,803年に出発したのですが、このとき空海は乗船
していなかったのです。しかし,出航してすぐさま船が難破したため,翌年もう
一度,出発することになったのです。そういう事情からただでさえ少なくなって
いた志願者はさらに少なくなっていた事情にくわえ、 空海は、師の阿刀大足に
留学僧(るがくそう)として遣唐使(けんとうし)の一行に参加できるよう朝廷
にはたらきかけてくれるように懇願します。また、かねてより付き合いのあった
大安寺の僧侶勤操(ごんぞう)の力添えもあり、正式に朝廷から私費留学生とし
て入唐を認められました。まもなく、空海は、東大寺戒壇院(かいだんいん)
で戒めを受け、国家公認の正式に僧となったのでした。


 この幸運は帰る時にも続きます。普通,遣唐使の留学生は20年間の予定でし
たが空海は,2年で帰国しています。もしこのとき帰れなければ,次の遣唐使
成功は34年後なので,空海は中国で死んでいたことになります。なぜだかわか
らないが,ともかく2年で無事帰り,しかも空海だけが当時日本では,最新の知
識を持ち帰ったことになります。このため,空海は,この後日本の中で仏教を広
めながら,最も有名な僧侶となっていくのです。


 最澄空海の違いは、最澄は短期留学の研究僧である還学僧(げんがくそう)
であるのに対し、空海は長期留学(最低でも二十年)の私費留学僧であったとい
うことです。このため帰国しても約束違反ということで、都に入ることを許され
ませんでした。


 ●なぜ空海は2年で帰れることになったのか?

 空海を乗せた804年の遣唐使船は、途中暴風雨に遭い、流されてようやく辿
り着いたところは、目的地の揚子江よりはるか南の福州でした。時ならぬ異国の
船の到来を怪しんだ地元の役人は、その上陸を許可しませんでした。そのとき空
海が旅の苦渋を綴りながら、切々と訴えた嘆願書は、名文の聞こえ高いもので、
その見事な文章に感嘆した役人は都へ連絡すると同時に、ようやく一行を受け入
れたのでした。日本からはるばる四千キロ、七か月の旅路を終えて、空海はつい
に唐の都長安に達したのです。


 広く東西文化の交流が行われた当時の長安は、まさに世界文化の中心であり、
ここで空海は、貪欲なまでにあらゆるものを吸収したのです。仏教はもちろん、
美術・工芸・最新の科学技術・医学、全てを彼は学び取りましたが、それを可能
にしたのは、彼の天才的な語学力でした。


 日本にいるときから中国語に堪能であった彼は、長安で更に、インドの言葉サ
ンスクリットも覚えたといわれています。そして唐へ渡ってから二年後、彼は世
界最高の文化の粋を祖国に持ち帰りました。いわば巨大な空海コレクションとも
いえるその唐からの招来品は、仏像・仏具・仏典をはじめ膨大な量であり。その
多くは、現在も京都の東寺に保存されています。これだけの購入資金をなぜ一介
の留学僧、空海が持っていたか、それは大きなナゾなのです。これと『三教指帰
が書かれた延暦十六年(797)十二月一日から延暦二十三年(804)七月六日の入
唐出発までの七年間の消息が不明であることについては、次回にチャレンジ致し
ます。


 空海長安に着くとすぐに西明寺(さいみょうじ)を訪ねます。ここで、留学
僧として三十年間も長安で学ぶ永忠(えいちゅう)に出会い、大日経について学
ぶたいならば、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果和尚(けいかかしょう)が唯一
であることを教わります。空海は恵果和尚から密教を学ぶために、その準備とし
てまず梵語、インド仏教などを学ぶことにしました。

 まず醴泉寺のインドからの般若三蔵および牟尼室利三蔵につき、サンスクリッ
ト語およびインド哲学を学ぶことにしました。ところが彼らは仏教からキリスト
教まで学んでいた隠れた大天才でした。彼らはこの日本から来た若き英才に惹か
れ、彼らの知識のすべてを教え込みます。空海はこの両三蔵による教育のおかげ
で、サンスクリット語の仏教原本が直接読めるようになりました。これにより、
すべて漢訳された教典にしか触れることなかった日本の仏教界が、本物の意味解
釈が出来るようになります。この年の六月上旬に恵果に出会うので、両三蔵につ
いて学んだのはおそらく一月から五月末までのことであったと思われます。

 
 八○五年五月、ようやく恵果和尚との面会を許可された空海青龍寺の門を叩
きます。恵果和尚も空海の訪問をたいそう喜ばれ、密教の奥旨をすべて伝える約
束をされ、八月上旬密教の法を伝える灌頂(かんじょう)を受けることになりま
した。そればかりか、「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かります。
恵果和尚は空海に対し、密教の法具・経典・曼陀羅(まんだら)・法衣などを用
意し、空海に日本に早く帰って密教を広めることを願い、これを遺言として十二
月十五日亡くなりました。インドから来た両三蔵、恵果和尚と空海との出会いは、
まさに運命的なものであったといえるでしょう。(空海の別名 「遍照金剛」
(へんじょうこんごう)の由縁)


 空海を一目見た恵果は、「われ先きより、汝の来れるを知り、相待つこと久し。
今日、相まみゆるは、大いに好し大いに好し。報命つきなんとするに、付法する
人なし。必ずすべからく速やかに香花を弁じ、灌頂担に入るべし」と言って大歓
迎し、六月十三日には、学法灌頂担に入って胎蔵界灌頂を受け、七月上旬には金
剛界灌頂を、八月十日には阿闍梨位の伝法灌頂を受けた。そして恵果は死期が近
づくと空海に遺言を残し、十二月十五日に東塔院で入滅しました。この間わずか
7ケ月のことでありました。


 ●なぜこの中国の最高僧がここまで異国の、しかもランクの低い僧にのめりこ
  んだのだろうか?


 恵果が入滅してまもなく、おそらく十二月の末頃に、遣唐判官の高階遠成一行
長安にやって来ました。長安の都に遠成一行を迎えた空海は、この時帰国の決
意を固めました。留学二十年を計画していたが、半年足らずで恵果から正純密教
を残らず伝授されたことと、早く帰国して国家に奉り、天下に流布して蒼生(人
民)の福を増せという恩師の遺言に動かされていたからです。もう一方で実際問
題として資金に乏しくなったからということもありました。恵果の埋葬をすませ
ると、一月十八日以後のある日、空海は帰国を願う二通の公文書を起草して遠成
に提出しました。一通は空海自筆のもので、もう一通は橘逸勢による代筆文でし
た。
 元和元年(806)の二月から三月にかけては、空海はまだ長安にとどまっており、
四月には越州節度使に依頼して、広く内外の経書の収集につとめていました。
『請来目録』によると、仏教・儒教道教の三教のうちの経・律・論・疏(注釈)、
伝記ないし詩・賦・碑・銘・卜(占い)・医・五明(インドの諸科学)等の書物
を蒐集していたようです。また広大な宿坊で学んだ調理法を持ち帰った、うどん、
高野豆腐は後に有名となります。


 大同元年(806)十月に判官遠成一行に従って帰国した空海は入京出来ず、しば
らく九州の太宰府に滞在しますが、やがて消息を消してしまいます。入京できな
かった理由は、二十年の留学予定だったにも関わらず二年で帰国したことが違法
であったためであろうとされています。ただ、大同二年(807)二月十一日に、
太宰府の時間某の亡母の供養ための法会を行い、その願文を起草しているので、
この頃はまだ太宰府に滞在していたことは明らかです。いずれにしても、在唐中
に求めた膨大な荷物を保管できる場所は限られてくるので、太宰府観世音寺
いたのではないかと思われます。


 ●なぜ帰国後3年もの間、都に入れなかったのか?


 大同四年二月三日に空海最澄に名刺を投じたことが『延暦寺護国縁起』に書
いてあることから、空海がすでに都に近いところにいたことは想像できますが、
四月に嵯峨天皇が即位してから三ヶ月後の七月十六日に太政官符が和泉の国司
下り、ようやく入京を許され、八月初めに高雄山寺に入ることができたのです。
(以後14年間、居住)
 十月四日、嵯峨天皇に『世説』の屏風を書いて献上しました。この時から空海
嵯峨天皇は親しい交際を続けることになります。(のち高野山:金剛峰寺ーこ
こで真言宗の開祖となる、 → 京都に東寺を開く。)またこれによりはじめて
定住の地を得ることになり、今まで秘めていた成果を開花させてしていくところ
となります。