日本を救った、日本人の三蔵法師の物語

舞黒一太郎の優雅な電脳日記

   
目次 http://d.hatena.ne.jp/microititaro/20040911



 ●日本を救った、日本人の三蔵法師


    空海最澄と共に唐に渡ったもう一人の名僧、霊仙三蔵(れいせんさんぞう)




  舞黒一太郎です。



 日本人でただ一人三蔵法師になった人、(霊仙三蔵)は、神功皇后を生んだ名門、丹生真人(にゅうまひと)である息長氏一族として、759年、近江の国、醒ヶ井の里、枝折(しおり)で生まれました。この地は、伊吹山の近くにあり、上丹生(かみにゅうま)の山の中腹で、松尾寺があるところです。


 この近く、滋賀県米原町、同多賀町にある霊仙山の上に役行者、小角(えんのぎょうじゃ、おづぬ)が開いたといわれる霊仙寺があり、加賀の白山で修行した泰澄によって大日如来が安置されていました。霊仙は幼名を日来弥(ひきね)といい、六歳の頃から十五歳頃まで、この霊仙寺及びその支院、松尾寺で修行し、十五歳(774)のころ、奈良興福寺へ入山、剃髪をして、興福寺僧賢憬に師事し、法相宗の教義を修行し、併せて漢語を習得したとされています。


 霊仙は修行中、夢の中に大日如来が現れ、その教えを学ぶためにはどうしても唐に渡らねばと決意します。しかしそのチャンスが訪れたのは,(804)年の遣唐使の時であり、霊仙はすでに四十五歳、当時としては晩年をむかえようかという年になっていました。


 霊仙が乗ったこの年の遣唐船には、最澄空海という、仏教史上もっとも有名となる二人の僧が同船していました。共に入唐しましたが、最澄はわずか八ヶ月、空海は三年で帰国しました。しかし霊仙は、憲宗皇帝の信厚く帰国を許されず、その後二十三年の長きにわたり在唐し、帰国はついにかないませんでした。


 有名な二人に比べ、無名の霊仙が、実はいかに優秀な人であったかということは憲宗皇帝が、僧の最高称号である「三蔵」を授与したことでわかります。三蔵といえば「孫悟空」で馴染み深い、あの玄奘三蔵を思い出しますが、僧としての最高位を示す称号であり、位を受けたあとは、霊仙三蔵(れいせんさんぞう)となりました。霊仙三蔵はただ一人の日本人、三蔵法師なのです。


 サンスクリット語で書かれた仏教原典を学ぶため、醴泉寺(れいせんじ)においてインドから入唐していた高僧般若から、空海と共にサンスクリット語を学び、教典研究を行っていました。空海はその後恵果のもとへ去りますが、霊仙はそのまま研究を続けていました。その後皇帝に命じられて、般若三蔵を中心とする八人の高僧に選ばれ、般若とともに未漢訳のまま皇室に保管されていた経典“大乗本生心地観経”の漢訳を行うことになりました。般若がサンスクリット語で音読し、霊仙が漢語に訳していくのです。この間、事業の途中で般若三蔵が使節として、インドのカシミールに派遣されてしまうというハプニングがあったのですが、霊仙の努力により無事完訳出来たのです。この訳経の功によって般若と共に三蔵の称号を贈られ、更に、皇室の仏事を勤める内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)の一人として、国家鎮護という重要な役を果たすことになりました。



 はからずも唐の国の中枢部分に入ることになった、霊仙三蔵は、そのうち、太元明王(だいげんすいみょうおう)を本尊とする、太元帥法(だいげんすいほう)という密教大秘法を修得しました。



 太元明王は梵名をアータヴァカといい、原義は「曠野鬼人大将」の意で、林にすんで子供を食い殺す悪鬼でしたが、仏の教化によって国土を守護する明王となった人です。東密では伝統的に「たいげんみょう」と読み、これを本尊にとする太元帥法(大元師法)は、法力により兵乱・賊難を鎮圧する怨敵降伏・護国を実現する秘法です。

  

 霊仙三蔵は望郷の念やみがたく、また自分の学んだものを日本に伝えるべく、憲宗皇帝に帰国をたびたび願い出ますが、その学識を惜しみ、またその知恵が国外に出ることを怖れた皇帝は、その帰国をどうしても許しませんでした。


 
 しかし唐朝の勢力は衰え、八百二十年に憲宗皇帝が、暗殺されるという事件が起き、その結果反仏教派の力が強くなっていきました。霊仙三蔵はいつしか追われる身となり、渤海に近い、山海省、五台山に住むようになります。渤海国は日本との交易を行っており、日本と唐には渤海経由の三角交易ルートが存在していました。霊仙三蔵はこの地で日本の臭いをかぎ、自分の持っているすべてを日本に伝えるべく、さまざまの努力をはじめます。


 比叡山延暦寺の僧「円仁」が承和五年(838)遣唐使の船で入唐し、(840)に五台山をおとずれ、『入唐求法巡礼行記』でに霊仙三蔵の五台山における行跡を記しています。その中で霊仙三蔵の弟子応公に従っていた渤海国の僧、貞素が、七仏教誡院の壁にかけて残した板書の「哭日本内供奉大徳霊仙和尚詩並に序」を見付けた内容があります。それによると



1,貞素は弘仁十三年(822)、五台山の霊仙三蔵が日本国天皇に宛てた留学資金を要請する書を嵯峨天皇に届けた。



2,嵯峨天皇は、その要請に答えて金百金を貞素に預け、貞素は五台山に戻り、霊仙三蔵に渡した。



3,霊仙三蔵はその返礼に、仏舎利と経典二部(一部は心地観経)を貞素に託した。



4,長慶五年(825)、貞素は再び日本に渡り、淳和天皇に届けた。



5,貞素は天皇から再び預かった金百金を持ち、大和二年(828)四月七日、五台山鉄勲寺に戻り、霊仙三蔵に渡そうとしたが、霊仙三蔵は既に暗殺されていた。(大和元年827)



 霊仙三蔵は嵯峨天皇とのやりとりで、かって般若のもとで共に学び、帰国した空海のその後の活躍を知ります。もし自分の帰国がかなわぬなら、自分の持っているものを日本に伝えるべく、法具と教えを弟子に託します。その予感は不幸にもあたり、八百二十七年、なにものかの手によって毒殺されました。享年67才でした。


 その後、空海の弟子の一人である、山城国小栗栖の法琳寺の僧常暁が、不思議な因縁でこの太元帥法と法具を日本に持ち帰ることになります。霊仙三蔵は教えと法具を、日本から僧が来たら渡せと遺言していたのです。


 常暁は承和六年(839)帰国し、霊仙三蔵の遺言どおりこの秘法を宮中に伝えました。それ以来宮中では国難にあたった場合、鎮護国家の秘法としてこの「大元帥法」がおこなわれるようになり、驚くべきことにそれは昭和二十年、太平洋戦争末期まで続きました。


 平将門の乱を鎮めたり、北条時宗の時代の蒙古襲来のおり、攻めてきた元の船団が、神風によって沈められたりしたのは、すべてこの太元帥法によるとされています。日本を救う神風を起こした大元帥法を日本にもたらした人は、空海最澄とともに唐に渡り、日本人ただ一人の三蔵法師となった、(霊仙三蔵)でありました。